クロユリさんと五月   こばやしぺれこ


「こわいゆめをみました」
 クロユリさんが私の部屋に入ってきたのは、午後十一時三十七分だった。
 私はベッドに入ったものの、うだうだとスマートフォンを眺めていた。だから正確な時間がわかったし、足音のしないクロユリさんの訪問にも気付けた。

 クロユリさんは猫又だ。真っ黒なお団子しっぽの猫又で、家政婦として私の家に住み込みで働いてもらっている。
 クロユリさんはうちへ来ることが決まったときに
「部屋は台所の隅のダンボール箱で構わないです」と言っていた。けれど、私はクロユリさんが来ることが決まってすぐに、一念発起してずっと手付かずだった両親の部屋を片付けた。服や本などは一部を残して処分して、家具は使えるものだけを残して、私の部屋にした。
 そうして元私の部屋であった六畳の洋室を、クロユリさんの部屋にしたのだ。
 クロユリさんの荷物ははじめ、小さな巾着ひとつきりだった。
 今は、六畳の部屋にクロユリさん専用の小さなベッドや机が並んでいる。机の上にあるランプは、手作り体験会に私とクロユリさんとで行ったときに私が作ったものだ。クロユリさんが作ったものは、私の部屋にある。クローゼットの中にはクロユリさんの様々な衣装が詰められている。
 家具も服も私が勝手に買い集めたものだけど、クロユリさんは家計簿を机でつけているし、ベッドで丸くなって眠る。私はそれを見るたびに、胸にぽっと明かりが灯ったような気持ちになれる。

 私の部屋と主を失った両親の部屋は今、クロユリさんの部屋と私の部屋になっている。

 クロユリさんは寝るのが早い。そのかわりに朝も早いのだけど、夜の八時にはもうすべての家事を終わらせて「おやすみなさい」を言いにくるのは、実はちょっとだけ寂しい。
 私が夜型人間なのが良くないのだけど。クロユリさんにも毎日「はやくお休みになってくださいね」と釘を刺される。
 それでもスマートフォンを眺めたり、テレビを眺めるのをやめられない。

 クロユリさんの瞳は、夜に見ると黒目が大きくて少し幼く見える。
「クロユリさん?」
「ユキ」クロユリさんは、駆け寄った私に両手を差し出して黙ってしまう。
 小さな黒い手。猫よりも指が少し長くて、でもしっかりと毛に覆われた。クロユリさんはその手でなんでもしてしまう。私のお弁当を作ってくれて、部屋に掃除機を掛けてくれる。シャツにアイロンだって掛けられる。
 手のひらでクロユリさんの手を受け止める。少し冷えた、湿っぽい肉球が触れる。
「わたし、がんばるので、もう少しここに置いてくださいね」
 ぽつん、と落とされた言葉は水滴みたいに足元へ落ちた。

 クロユリさんは猫又だ。でも元は猫だった。真っ黒でお団子しっぽの、にゃあとしか鳴かない猫だった。
 十五年生きて猫又になったクロユリさんは、元の家から出された。元の家は、『猫』しか飼えない家庭だったからだ。
 私が知っている、クロユリさんの昔。
 クロユリさんは、そうして猫又保護団体の施設に引き取られた。
 そこで、私はクロユリさんと出会った。
 五月の終わり。山の麓の施設の周りには田んぼが広がり、空は高く澄んでいた。緩やかに吹いた風に名前も知らない小さな白い花びらが混ざっていて、祝福みたいに舞っていた。

 私にとって、あの場所は幸せな思い出のひとつだった。
 でも、クロユリさんにとってのあそこは、まだ悲しい思い出でしかないのだろう。片付けられなかった、私の両親の部屋みたいに。
「ごめんねクロユリさん」
 本当は抱きしめるべきなのかもしれない。
 でも私はただクロユリさんの手を握りしめ、俯いた頭の緩やかなカーブを見つめている。薄く尖った二つの耳の間、手触りの良さそうな毛皮が震えている。

 私は、猫又保護施設へ顔を出しに行く約束を、反故にしようと決めた。ちょっとした里帰りのつもりでオーケーした、明日の軽率な遠出は家に引きこもって海外ドラマを見る時間に費やそう。クロユリさんと、なにもせずに過ごすのだ。
 明日の朝すぐに。もう少し待ってください。そう電話しよう。





こばやしぺれこ
作家になりたいインコ好き。今度は二次創作の方で七転八倒中

五月のすごく天気が良い日は、でもなんでか物悲しくなるような感じありますよね。
なんでしょうかねあの気持ち。郷愁に近いような、どうしたって会えない人のことを思い出したときみたいな。
最近の人が「エモい」っていうみたいな、そんなアレ。
そんなアレがテーマです。