クロユリさんと七月 こばやしぺれこ
猫又のいる居酒屋ができたという話を知ったのは、新聞の折り込み広告からだった。
元々両親が取っていた新聞を、私は惰性で取り続けていたのだけれど、クロユリさんが来てからはなんとなく読むようになっていた。早起きした時だとか、休みの日だとか、そういう時限定ではあるが。
気になる記事だけを拾い読みする私の隣で、クロユリさんはスーパーの折り込み広告を真剣に見比べる。それが余裕のある朝の光景になっていた。
ある土曜日の朝。
「ユキ、これ」
またお一人様おひとつ限りの卵かしら、と思って受け取った広告が、居酒屋「鯖虎」のものだった。
その居酒屋は、私が毎日使う駅から徒歩数分の雑居ビルに入っていた。リニューアルオープン、とあることから以前もあったのであろうことが伺えるが、記憶には薄い。
私はお酒が苦手だ。会社で行われる飲み会にもほとんど不参加であるし、行ったとしても烏龍茶だけをちびちびと飲んでいる。二次会なんてもってのほかだ。
だからこそ駅前にあるらしき居酒屋についても記憶が薄いのだが、鯖虎の広告は私に強い印象を与えた。
曰く「猫又のいる居酒屋」が鯖虎のコンセプトであるらしい。
昨今撤回する店が増えている中で、「猫又お断り」を掲げる飲食店は多い。主な理由として衛生面やアレルギー対策などが挙げられている。飲食物に毛が入ることへの忌避感や、猫アレルギーの苦しさへの理解はそこそこあるけれど、「猫又お断り」と掲げてある店を見るたびにしょんぼりとしてしまう。
けれどこの店は違う。むしろ「猫又歓迎」と書かれている。
「行ってみよっか」
「行ってみたいです」
予定が決まるのは早かった。
初めて自主的に行った居酒屋は、予想を遥かに超える楽しさだった。
鯖虎には店主である男性とその奥さん、そして二匹の猫又がいた。料理を作ったりするのは店主と奥さんで、注文を取ったり料理を運んだりするのが二匹の猫又の仕事であるようだった。
猫又連れで現れた私を店主は歓迎してくれた。こういうところは初めてで、お酒が苦手なんです、という私の言葉もちゃんと聞いてくれた。この居酒屋ではごはんを食べるだけでも問題無い、と店主は快活に答えてくれた。
おすすめだという鯖の味噌煮はとても美味しかった。クロユリさんに至っては、詳しい作り方をどうにか奥さんから聞き出そうとしていたくらいだ。
開店してすぐ入った私達からしばらくして、店内は満員になった。猫又の姿も複数あり、私が知らなかっただけでこんな近くに猫又が暮らしていたのか、という驚きがあった。
どうやら向こうもそう思っていたらしく、近くのテーブルに座っていた老夫婦と三毛の猫又とは、いつの間にかテーブルをくっつけて話に花を咲かせるほどになっていた。
気がつけば勧められるがままにお酒も飲んでいた。なんとかという日本酒で、ふわっとした甘さで飲みやすいものだった。クロユリさんは三毛猫又とまたたびのお酒を飲んでいた。
そしていつの間にか、夜は深くなっていた。
私とクロユリさんは、月明かりの下家路を歩いている。真夏の空気は水分が濃く、日中の熱気の残滓が私とクロユリさんの頬を撫でる。
とても気分が良かった。会社の飲み会でも、大学生の時にあった飲み会でも、こんなに気持ちよく酔ったことは無い。
私はクロユリさんと、にゃらにゃらと夜道を歩く。
ずいぶん明るいなぁ、と見上げてみれば、満月が私達を見下ろしていた。太陽もかくや、という濃い影が、私とクロユリさんの足元に落ちている。
「たのしいねぇ!」
「そうですねぇ」
私は意味もなくクロユリさんに話しかけ、クロユリさんも意味のない答えを返してくれる。
「また行こうねぇ」
「行きましょうねぇ」
もう何度目になるかの約束に、クロユリさんは応えを返してくれる。
ああそうか、と私は夜道で悟っている。お酒でふわふわとした頭は、いつもは使わない部分を冴え渡らせる。
私はお酒が苦手なんじゃなくて、好きでもない人とする飲み会が苦手だったのだ。
だってクロユリさんと飲むお酒はあんなにおいしかったし、猫又との楽しい生活を話せる席には何時間でも居たかった。
帰り際、心の底から「また飲みましょう!」と言えた。
そっかそっか。一人で納得してつぶやく私に、応えは無い。
あれ? つぶやく。
「クロユリさん?」
姿は無い。気がつけば夜道に私一人きりだ。
「クロユリさん?」
風が吹く。生ぬるい風。
住宅街の狭い交差点に、生き物の気配は薄い。ただ道路に降り注ぐ月光が、黒々とした影を横たわらせるだけ。
ぬらり、と影が動いたような気がした。背筋が震える。
「クロユリさ……」
「ばあ!」
ぎゃあ! と腹の底から悲鳴が出た。
道路の隅の暗がりから飛び出した黒猫又は、にゃははははと大笑する。
「クロユリさん!」
「ごめ、ごめんなさい」
大きく開いた口から、白くて鋭い歯が見える。こんなに笑うクロユリさんを見るのは初めてだ。
もう! と怒ってみせる私に、クロユリさんは「もうしません」と言ってみせる。殊勝な言葉とは真逆に、その顔は笑っていた。
「ほんとにびっくりしたんだから!」
「ごめんなさいユキ」
ああ面白い。つぶやくクロユリさん。
もう。ともう一度怒って見せてから、私はクロユリさんの手を取る。
満月の夜道には点々と深い影が口を開けている。クロユリさんの艷やかな毛皮のような影。
私達は小さな夜に出入りしながら、帰路を歩く。
気持ちの良い夜が広がっている。
私とクロユリさんを飲み込んで、夜は黒々と裾を広げる。
こばやしぺれこ
作家になりたいインコ好き。暑さに負け気味
お酒の楽しさは相手によりけりですよね