ある獣   中村太一


 自宅への帰り道、例の道に出ると、私はその必要もないのに息を止めた。
 彼がいる。
 唾をゴクリと飲み込んだ。動揺を悟られてはいけない。
 視線はまっすぐ前方。彼と目を合わせたくないから、上は向かない。隙を見せてしまうから、下を向いてもいけない。視線を動かさないようにして、視野の隅に映る彼の姿を見る。日陰の中にうすく光る、彼の眼球がこちらを向いている。
 音を立てないように、息を吐き出し、再び吸った。自分の腕と脚の動きに違和感はないかと、神経をとがらせる。
 いつも通りに歩き切ることができれば、彼は危害を加えたりしない。決して彼に興味を持ってはいけない。彼に関心を示せば、彼は鋭い爪で襲いかかってくる。
 陽が傾いている今の時間帯、住宅密集地にあるこの道は、ほとんどが日陰に覆われている。日陰は彼のホームグラウンドだ。日陰の暗さに慣れてくると、痩せぎすの彼の姿が仔細に見えてくる。埃のような灰色の小さな体、泥のついた縞々の尻尾。傍目に見ればただの薄汚れた猫だが、まん丸の瞳には猫に似合わない確固たる意志が宿っている。主人以外の誰の干渉も受けぬという強い意志が。
 ベランダの塀の上にたたずむ彼を通り過ぎる瞬間、ゴロゴロいう息遣いが聞こえた。走り出したい衝動を必死で堪え、そのままのペースで歩き切り、次の角を左に曲がった。
 私は立ち止まり、長く息を吐いた。
 シャツの下の左腕につけられた傷跡が疼いた。五年以上経つが、決して傷跡は消えなかった。



 すべての猫を警戒しているわけではない。彼は特別だ。
 ふつう、猫は飼い主の意に介さず気ままに生きるものだが、彼は違う。彼とその主人の間には、徹底した主従関係が敷かれている。主人は彼がいる塀の部屋に一人で住んでいる老人だ。私が知る限り、猫を手なずけることのできた唯一の人間ということになる。



 幼い頃、一人ではその道は歩けなかった。一人で帰るときは遠回りする別の道を使っていた。今、一人でもその道を歩けるようになったのは、恐怖を受け入れるすべを身につけたからだ。ある意味その道は私にとって大人の道だった。

その道に、ランドセル姿の小学生がたむろしていた。ちょうど彼がいつもいる場所の近くだった。私は嫌な予感がした。
 すこし近づくと、塀の上に彼が見えた。小学生たちは手に何かを乗せて彼にそれを差し出していた。彼に干渉しようとしている。
 心臓が破裂する思いがした。
 −−お前ら死にたいのか!
「やめろ、餌をやるな」
 思わず大声で叫ぶと、小学生たちは眉をひそめて私を見た。
「餌をやるな。早くそこから離れろ。いいから早く」
 私が言うと、男の子がひとり、前に出てきた。
「だって、この子すごく痩せてるよ。なにか食べさせないと」
 何も知らないガキどもが。殺すぞ。
「早く行け」
 私は彼らを睨みつけた。どうかわかってくれ、そいつは危険だ。説明している暇はない。私が彼の注意を引くから、その間に逃げるんだ。
 ようやく小学生がその場を去ると、彼がこちらを見て静かに立ち上がった。
 私もまっすぐ彼を見据えた。目を離した瞬間やられる。そう直感した。全身の毛を逆立てて威嚇する彼が一歩足を踏み出した。私は一歩後ずさりした。彼との間に10メートルぐらい距離がある。逃げきれるはずだ。そう考えてみても、なぜか分が悪いように感じる。
 もう一歩後ずさりした。しかし、ダメだ。あと三歩後ろに下がったら走り出そう。
 一歩、二歩と後ろに退がる。
 しかし、彼が急にぷいと首をそむけ、塀からベランダの中に飛び降りた。
 いったいなんだったんだ。ゆっくり息を吐き、しばらくその場に立ちすくんだ。今日はこの道は通らない方がいい。私は来た道を引き返し、遠回りする道を使って家路についた。



 彼の主人であるその老人にとって、殴る蹴るのしつけは当然だった。また、彼のつけている首輪には特殊な仕掛けがあった。
 あるとき、老人の手から離れ、逃走していく彼を公園で見たことがある。結局、彼の逃走は失敗に終わった。老人が何かの機器を操作すると、彼は体を硬直させて倒れ込んだのだ。老人は公園のベンチから立ち上がり、横たわる彼に近づいた。「たかが数万ボルトで気絶するのか。お前は野良じゃ生きていけないな」老人は彼を掴み上げてそう言った。一方、褒美の餌は糸目をつけず与えてやる方針のようで、一時期、彼はデブ猫だった。老人による過剰なアメとムチにより猫本来の習性を失った彼は、老人との歪んだ主従関係を持った。

 またあるとき、ベランダから投げ飛ばされる彼を目の前で目撃した。老人は鬼の形相で道路に叩きつけられた彼を見つめていた。私はすぐに駆け寄って、彼を覗き込んだ。受け身を取らなかったことからも、彼は相当弱っていることがわかった。動物病院か保護施設に連れていけばいいのか。おそるおそる手を伸ばすと、その瞬間、彼は私の腕を切り裂いた。
 鋭い痛みに思わず悲鳴をあげ腕を押さえた。指の間から何筋も血が滴り落ちていた。
 彼は平然とした足取りで塀をつたい、ベランダに戻った。ずっとベランダから顔を覗かせていた老人は戻ってきた彼を抱きしめ、「よし、よくやったぞ」と頭を撫でた。そして私を見てニヤリと笑った。



 翌日、一人の大きなカバンを持った男の子が塀の近くにいた。「なにか食べさせないと」と言った男の子だった。
 塀の上に彼の姿はなかった。私は男の子のそばに近よった。
「昨日は大声出してごめんね。でもね、ちょっと聞いて欲しいことがあるんだ。いつもここにいる猫のことなんだけど、あの子は変な人に育てられた猫でね、とても危険なんだ。下手に近づくと危険な目に会うよ。こんなふうに」
 私は袖をまくって彼に引っ掻かれた傷跡を見せた。
 男の子は、ぎょっとする表情をした。が、納得はしなかった。
「でも、あの子を育ててた人ってもう死んだんでしょ。誰かが餌をやらないと、あの子も死んじゃうよ」
「あの猫はご主人以外から餌をもらわないように躾けられているんだよ。そうだろ? 君が餌をあげても食べてくれないだろ?」
 男の子はこっくりとうなづいた。
「餌を食べないのは、猫の意思なんだ。こればっかりはどうしようもないよ。彼は望んで餌を食べないんだよ。それなのに、餌をあげようとして、君が怪我したら大変だよ」
「でも、死んじゃうのはかわいそうだよ」
「お兄ちゃんもかわいそうだと思う。でも彼は餌を食べないよ」
「やってみなきゃわからないよ」
「君が怪我する姿は見たくない。君も引っ掻かれたくないだろう?」
「……でも、かわいそうだよ」
 私は下を向いてしばらく考えた。
「よし、わかった。お兄ちゃんが餌をあげよう」
 男の子がパッと顔を上げた。
「ほんとに?」
「今すぐやってくるよ」
 男の子が持っていた猫の缶詰をもらい、塀をよじ登ってベランダに入った。
 ベランダのガラス戸から、空っぽの部屋が見えた。飼い主の老人が孤独死した部屋だ。生前、近所でも評判が悪かった老人が亡くなったというニュースは、瞬く間に広まった。アパートの大家が呼んだ後処理業者が残った荷物を運び出し、部屋を清掃した。そのとき故人の飼っていた猫は放置されたのだ。
 薄暗いベランダの隅に彼がうずくまっていた。彼は私を睨みつけ、威嚇するようにシャーシャー鳴いた。が、立ち上がる様子はなかった。わずかな体力すら残されていないようだった。
 私が近づくと、彼はもぞもぞと腕を動かした。見ていて哀れな気持ちになった。
「動くなよ。体力つかうぞ」
 缶詰を開けて彼の近くに置いた。彼は缶詰に見向きもせず、私を威嚇しつづけた。
「主人からいいものばかり食わしてもらったんだろう。お前のご主人はもういないぞ」
 今はもう、彼は薄汚れた痩せた猫にすぎなかった。かつては彼が怖くていつも道を遠回りしていた。道端で彼を見つけると恐怖で立ちすくんだ。友達と一緒にいるときは格好つけて怖くもなんともないというふりをしていた。今の彼を見ると、恐怖に体を支配されていた当時のことを、なぜか懐かしく思い出した。
 袖をまくって傷跡を彼に見せた。
「ほら、お前がくれた傷だ。今のお前は見る影もないな」
 実を言うとな、お前がくれたものは傷跡だけじゃないんだぜ。お前から、恐怖を受け入れるすべを学んだ。お前の前を一人で通れるようになったときの誇らしい気持ち、成長したという実感をもらった。今や俺は、あの男の子をお前から守ってやることもできるんだぞ。
「災難な主人だったな。お前は優しくされることを知らないんだ」
 私は彼の前に置いた缶詰に手を伸ばし、取り上げるそぶりを見せた。すると、彼は震える足で立ち上がり、大きな声でシャーシャー鳴いた。手を引っ込めると、彼はおそるおそる缶詰に口をつけた。
 私は立ち上がり、ベランダの外にいる男の子に話しかけた。
「水と、水を入れる皿、持ってない?」
「あるよ」
 カバンを漁るガサゴソいう音がし、「これ」と塀越しにペットボトルと皿を差し出された。男の子から受け取ってた皿を缶詰の隣に置き、水を注いだ。彼は無心で缶詰を食べつづけていた。彼の頭に手を触れると、一瞬だけ体をビクリとさせた。お前にも怖いものがあったんだな。なにもかもが怖かったんだな。私はそっと首輪をはずし、頭を撫でた。





中村太一
作家志望の社会人。円城塔や綿矢りさ、羽田圭介が好き。ツイッター→@toooooichi101

子供の頃は一つひとつの道に何かしら感傷を抱いていたなと思い出しました。